金環食(部分日食)1958年(昭和33年)4月19日



 中学生の時、金環食がありました。私と今は亡き同級生の井原克治君と観測した時のアルバムです。井原克治君の冥福をお祈りする。私が井原克治君と東京の神田で偶然、ぱったりと逢ったのが最初で最後でした。頃は東京オリンピックの頃だったと思います。その時、「学生服持っているか」と聞かれ高校の時の学生服を東京に持ってきていた為、差し上げた記憶があります。この様な東京のど真ん中での出会いは、以後ありません。

この記録は、松江にあったオリオン天文同好会に送りました。






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手作りの望遠鏡で投影した日食を二眼レフカメラで撮影しました。








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************久手中学時代の思い出*************


久手中学校は、統廃合で今は無くなった。昭和523月のことである。私がお世話になったのは、昭和314月から昭和343月までである。白い鼻緒の高下駄を履いて登校した。その頃は、ほとんど道路の舗装は、無く、雨が降れば、泥濘(ぬかるみ)と水溜りの道路であった。カバンは、白い肩掛けのカバンで、中学3年の頃は、風呂敷で通学していた。それが格好言いと思っていたのだと思います。

黒点観測も約2ヶ月続けました。当時、久手中学校では、給食は無く、お弁当を持ってくるか、自宅まで帰って昼食を食べて、また登校するのが常でした。長閑な時代でした。お昼休みの時間を利用して、黒点観測ができました。

久手中学の同級生で「久手科学数学研究会」をつくり、兄が昔学んでいた古い教科書の幾何の問題を解きあったり(その後「自然科学研究会」と改称、)この日食観測がきっかけでした。鉱石ラジオの製作や、その鉱石ラジオを携帯用に改善したり、海流の調査で瓶に手紙を書き込んだのを、日本海に流したり、気流の観測の為、古いラジオの部品のバリコンを解体し、バリコンがアルミニュームーでできている為、硫酸で水素を発生させ、風船に詰め込み、空に放った。掛戸の岩場で化石の採取も行なった。今、考えてみると、かなり危険な場所を登り、化石の採取を事故も無くしたもんだと、あの頃の無謀さに、我ながら驚かされるのを憶える。電流を地面に流し、ミミズの採取や、アーク放電の原理から、電波の発射を試みたが、電波が出たかどうか解らなかった。また、ラジオのリスナーとして、DX受信レポート(QSL)をおこない、北陸放送・東京放送TBS・文化放送・西日本放送・KBC九州朝日放送などのDX受信記録カードを手に入れた。受信機のラジオは、通称並四ラジオと呼ばれていた真空管ラジオで、周波数を同調するのに手間のかかる代物だった。屋根に周波数に合う長さのアンテナを張り受信した。ラジオの部品は、宮ノ下の交差点の所に、小さな部品屋(ラジオ屋)さんがあり、よく行っていました。


当時、我が家の唯一の受信機のイラストです。左の丸四角がスピーカ、右の上の四角の枠のつまみが周波数、その下の左のつまみがボリューム、右のつまみが周波数同調になっていました。同調する時ぴー、ピー、がー、ガーと音がしながら周波数を選び受信しました。並四とは、真空管が4本で、できているラジオです。

久手中学校には、科学部は、有ったが名ばかりで、学校で部活はした事は無かった。美術部にも入っていたが、こちらもほとんど何もしなかった。卒業の時、美術部、科学部の記念写真を部員の中に入って写真を撮った。美術部の顧問の先生は、浜田静子先生、科学部の顧問の先生は、糸賀秋臣先生、ちなみに担任の先生は、1年の時は、田中稔郎先生、田中稔郎先生とは、20年以上前、甥の結婚式の時お会いした事があった。その時、先生の奥様が押し寿司を作って、それを頂いき何十年ぶり目の田舎の風味・御馳走に感激したことを思い出します。2年、3年古瀬博介先生だった。 

「久手科学数学研究会」には、井原克治君、山尾優君、生越隆君、生越靖明君と私が入っていた。その後、「久手科学数学研究会」は、「自然科学研究会」に改名しました。

当時の久手中学では、先生が交代で、学校の夜勤を行って当直があり、夜、先生が当直している宿舎を友達と訪問した事もありました。

昭和30年代思いでのアルバムです。             2004.5.5記 文責 渡辺音芳

更新2004.5.6 最終更新2012.2.5

                                                      



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