コラム「凡言録」より3月18日
東・関大震災−8
原発から30キロ圏内で屋内退避の身はテレビの原発情報を見るだけ。「閉め切って外に出るなと云われしと父がひっそり新聞拡ぐ」(南相馬市・遠藤たか子。我が家は地震の翌日から新聞も郵便もこない。暇といっては何だが、放射線で汚染された妻と自分の上着、帽子を水洗いした
▼会津若松の避難所に行って一泊した義母と妻は、そこから更に宇都宮の病院に移るここになった
▼今日の原発。午前中は冷却装置の電源復旧のため、高圧線を原発敷地に引き込む作業が行われた。午後各空港から集められた自衛隊の特殊消防車7台が、3号機に計50トンの水を放水した。続いて東京消防庁の消防車も放水した
▼市会議員を務める従兄弟は、依然、行方不明だ。母親と妻らがた訪ねてきて状況が少し分かった。従兄弟は地震当日午前は地元中学校の卒業式に出席。その後市内小川地区に行き地震で地元に戻った。床屋の前に車を置き、海岸端の自宅の方へ状況を見に行って津波に襲われたらしい。従兄弟の車は支所前まで流されていた。