震災直後の我が家の様子を報告します。記憶があいまいに成らないうちに

3月11日午後2時46分巨大な地震が、湯ノ岳を襲いました。

 まだ、寒い日が続くため、蒔きストーブで炭作りをしながら、10数年前購入した白黒の災害用のテレビ(携帯=アナログ)で国会中継を見ながら、いつものように、過ごしていました。テレビから、緊急地震速報を知らせるチャイムが鳴り、国会中継が中断し、緊急地震速報に変わりました。その直後、多分3秒から5秒で海のほうからゴーッという唸りとともに、大きな揺れが起きました。ゴー、グラグラの始まりでした。家内は、二階にいて、降りてきました。

 私は、ストーブにかけていたヤカンの水を、ストーブの中に掛け、棚が落ちないように支えていました。2〜3分で揺れが治まったあと、家の中に入り、落ちているものがないか確認しましたが、倒壊、落下している物も無く、一応安心しました。テレビでは、津波警報が発令されていました。居間のテレビを付けると余震の注意も流れています。幸いにも、電気の停電も無く、情報は、テレビからも入ります。広範囲に津波警報、注意報が出ています。白黒テレビでは、注意報、警報の領域がわかりません。昔は、白黒の強弱でわかったものですが。

 その後、隣の大家さんは、足の不自由で心配になり、その増渕さん宅に行き、安否の確認をしました。「こんな地震初めてだよ」と元気そうでした。落ちたものがないか確認して、自宅に帰ろうとしたら、山の上の方から降りてきたいつも配達してくれるプロパンガス屋の運転手さんが、帰るところでした。

 話を聞くと、ガスボンベイを積んでいて、運転していたら、大きな揺れが襲い、トラックが波を受けた船のように左右にゆれたそうです。道を走ると、起伏や、割れ目が発生して、大変苦労したといっていました。

 注意を促しガス屋さんとわかれた後、一度家に帰り、ストーブを点検し、再度火を付けながら、テレビの震災情報を見ていました。津波が襲ったとのこと。阪神大震災の時も、朝起きたら、地震で大きな被害との事でしたが、最初のころの報道は、全体がわからず、火災が発生している映像でした。その後、高速道路の瓦解、ビルの傾斜、病院の一階部分の破壊状況など時間が追う毎に、その被害の状況が大きくなってきた報道を思い出しました。今回の地震の状況も同じような道を歩むのかと思いました。いま住んでいる自宅は、屋根の瓦も落ちませんでした。近所の家も瓦が落ちていませんでした。

 1995年の淡路・神戸大震災や2000年の鳥取西部地震、2004年の新潟中越地震そして2008年の宮城・岩手内陸地震を思い出していました。

 増渕さんのところに、増渕さんの家族たちが集まりました。いろいろ聞くと、津波がきて、地震と津波で、小名浜や植田の海岸の方がの被害が大きいといっていました。また、火災も発生しているとのこと。その足で、観音さんの所に行き、小名浜方面や、植田方面を見回したが、何分10キロ以上ある為、よく分りません。煙も確認できません。後で気がついたのですが、双眼鏡や天体望遠鏡を持っているのにその時は、まったく気が回りませんでした。余震が断続的に来るため、取り急ぎ、自宅に帰りました。湯ノ岳のこの地域は、停電が無かった為、TVの録画を始めました。

 増渕さん宅には、お母さんの容態を気遣い、泊まるための準備を始めていました。湯ノ岳のこの集落は、四軒、山の水を引いているとか、井戸からポンプでくみ上げているため、電気か停電にならない限り、水道の送水管が破損しない限り、水の確保は、出来ています。ライフラインは、大丈夫。

 夜、電話もかからない状態であるとのこと。家族や、知人に安否を知らせるため、パソコンに向かい、キーボードを叩く。原稿を作成。数日前買っておいたはがきを取り出し、印刷に取り掛かりました。これが東北大震災発生時の様子です。はがきは、13日月曜日に郵便局持っていき切手を購入し、投函しましたが、平の本局がダメージを受けていて、何時配達になるかわかりませんとのことでした。一応出しておけば、近々着くであろうと安易に思っていました。「災害用通信」の事を知ったのは、常磐郵便局に行った3月20日過ぎてからでした。

 人里離れた山の隠とん生活では、停電、断水、店の商品が無いなど、町の様子が判りませんでした。

 翌日12日自転車で町に降りて被害の大きさ、に驚かされました。しかし、湯本の町の方は、幾分よかったようです。町の人の話では、小名浜の方は、大変な状態だとのこと。新聞も遅れていました。テレビはもっぱら、宮城、岩手の被災と、原発のことを中心に伝えていました。

 家内は、着替えなどの荷物をまとめ、二階から下ろしていました。「こんな所に、いることは、できない」と。原発の事故から身を守るためでしょう。朝から口喧嘩になりました。 

 私は、ここに留まって、震災、原発問題の実態を最後まで見届けようと思っていました。


 4月11日の地震の様子も記録しておきます。

 今日は、震災から一ヶ月。昨日の一斉地方選の結果のこともありますが、震災の記録を残すべくテレビの録画をはじめました。午前中は暑いくらいの日で、庭のタラの芽を採取しました。陶芸窯に作品を入れ昼前から、窯に火を入れ、焼き始めました。午後2時46分黙祷し、3時過ぎから雨と雷に合いながら、釜の火を確認し、温度を上げつつ携帯白黒テレビを見ていました。

 4時前にビデオの交換を行い、夕方5時を過ぎまもなく窯の火を止めるべく、風雨雷強まる中、窯の小屋行き、火の回り具合を確認して、5時15分過ぎ灯油のタンク栓を止め、窯の栓を止めさらに電源を一度切り、送風状態に際や先、午後5時16分、グラグラと大きな地震が襲ってきました。

 窯の中の温度は、1000度になっていて、倒れれば大変危険だと感じ、揺れの収まるのを待って、安全を確認して外に出ました。出るとき、慌てて入り口の戸を壊してしまい、翌日、修理しました。やはり気が動転していたと思います。

 自宅へ行き、家内の安全と災害用携帯ラジオに電源を入れました。録画中のビデオは切れていました。電気は停電でした。停電になったのは初めてです。人形が何個か倒れ、2個ばかり破損していました。食器棚やテレビ置時計も無事でした。隣の家に一人住まいの足の悪いおばあさんのところに無事の確認をしました。携帯ラジオ、懐中電灯のセットを手伝う。以前非常用のLEDライトを二個取りに帰る。それを貸し明るくしました。約一時間後、電気回復しました。6時半すぎから再びテレビの録画を始めました。

 3月11日の本震よりはるかに大きい地震でした。その後、地震が2分〜5分おきに起きる感じです。今夜は、頻発に地震がおきる可能性大きいように思われます。今もぐらぐらと来ています。テレビの報道では、M7.0いわきで震度6弱と気象庁発表、がけ崩れ発生、渡辺町で車巻き込まれたとのこと。

 そういえば、3.11以降ドン、ドンという音がしていました。特に、数日前から多くなってきていました。テレビ・ラジオでは、字幕が出ないので地震ではないと思っていました。「裏山が崩れているのでは」と昭子は言い、見に行ってきたが、何も無し。特に、トイレに入っているときに、響きました。

 この「ドン、ぐら、ぐら」は、遠野や、田人、塩ノ平の方々も聞いていました。そして4.11の地震でした。

 また、山間部の田人では、山崩れにより住宅埋まり、4人が埋まったとの事。平では火災が3軒発生とのこと。ほかにも被害ありそうです。3.11から丁度一ヶ月目に再び地震でした。この間地震は、1600回震度4以上が100回以上、だったと報じています。また、ここいわきで、M6以上は3.11、3.24、4.11と三回も起こっています。きわめて異常です。今夕の地震の震源地は、茨城と福島の県境、直線距離で15キロぐらいです。きわめて近いところのようです。下のお家の市内に住む家族が駆けつける。夜のテレビでは、山崩れにより2名死亡とのこと。雷がなり地震が起きる巨大震災から一ヶ月目の一日でした。翌12日の午後2時7分M6.3震度6弱の地震がいわきを襲いました。震災報告4月12日のページをご覧ください。

                          2011年5月23日記

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震災直前3月7日 朝の雪景色です。雪が降り続いていました。みぞれのち雪。夕方から晴れ。炭作り。蒔き切り。

3月8日 みぞれのち雪。夕方から晴れ。炭作り。蒔き切り。

3月9日 晴れ時々曇り。買い物と増渕さんからたのまれた灯油を買う。HPアップ。三陸で地震有り。M7.3。湯ノ岳ほとんど感じず。

3月10日晴れ午後曇り。夕方から小雪ちらつく。小枝集め。

 相澤さんから公園に伐りきった薪があるから、取りにくるようにとのこと。取りに行く。炭作り。三陸で地震有り。M6.8。湯ノ岳ほとんど感じず。 

 今日は、米国による無差別がおこなわれた東京大空襲の日です。