震災報告72−3月21日(水) 晴れ時々曇り。風強し。

 いわき市は、小冊子「東日本大震災から1年−いわき市の記録」を3月11日付けで発行しました。無料で48ページA4版で自治会を通じて、全世帯向けに配布されました。

草木庵トップページへ戻る

震災報告トップページへ戻る

東京電力、線引きを固定化し福島県民を分断化するたくらみ。

21日東京電力は、福島県の中通り南部を

所用で、塙町に行き、そこで聞いたところに、昨年の3.11以降、東電福島第一原発の爆発に伴い全国46都道府県と福島県内に疎開している話になり、

 家族で大喧嘩になり、地方に疎開していった人が、親族の不幸で帰郷する事になったが、帰ってきて、又喧嘩になるのではと心配している。家族が、散りじりになる不幸なことが、今も起こっています。いや、これから多く起こるではないでしょうか。

 あるいは、「絆」と言うけれど、福島から疎開した人は、多くの困難に直面しているとのこと。それは、福島から来たと話すと、「放射能が怖いから、近寄らないで」と今でも言われている。

 疎開した人、止まった人の間でも、亀裂が深まっている。疎開しなかった人は、経済的に動けない人もいる。身体の不自由から移動に困難な人。色々の都合で出来ない人。

震災報告72−3月22日(木)晴れのち曇り。気温10度を超える。

 ホラ貝の練習か?相馬からの避難者か?午後、聞こえる。ここ湯ノ岳で聞こえたのは、初めてのこと。

震災報告72−3月23日(金)曇りのち雨。

 公民館から測定器借りる。二六日まで。さらに楢葉に二九日に行くのに二八日から四月三日まで、内一台は、三〇日に返却。HP編集。明日、13:30〜16:30講演会

震災報告72−3月24日(土)小雨後曇りのち晴れ。風強し。

 朽ちた竹の整理をする。

 午後、いわき中央台公民館で、「東北・太平洋地震を調べる−いわきの地震と断層」が開催されました。

震災報告72−3月25日(土)晴れ時々曇り。

 昨日の疲れ出る。自転車で中央台公民館に行った為、やはり年老いたのを感じる。往復約20`いわきは坂が多いため、特に帰りが難儀。

 昨日の講演会で聞いた地震計設置場所を探したが見つからず。

 午後4時頃消防のサイレン、10台以上の消防車と救急車、パトカーがパノラマラインをのぼる。道の駅周辺で止まり赤色灯の明かりが観音さんの所から見える。


 ▽22:22ごろM5.2震源の深さ50`、震度4浜通り

 講師には、小原一成氏(東京大学地震研究所 観測開発基盤センター)・教授と、石川達也氏(東京大学地震研究所地震予知研究センター研究員の二氏がそれぞれのテーマで講演と質疑応答がおこなわれました。

 従来いわき市内で設置されている地震計は、5ヶ所。3.11、4.11の地震の後湯ノ岳断層の変化を測定し、地震観測網強化のため、いわき周辺5`ごとに、15ヶ所以上の所に設置されたそうです。湯ノ岳にも設置し、リアルタイムで地震の波形が見ることができ、その様子が会場に設置されたパソコンで、見ることができました。但し、これは、一般には公開していなく、設置された地震計各地から集約し、発表するとのことです。

 NHKスペシャルで福島県浪江町の苦悩のルポを見る。町長と町民の3.11以降原発に翻弄されいつ帰れるか、揺れ動くさまをリアルに「原発が無かったら」、こんな事にはならなかったし

震災報告72−3月26日(日)晴れ時々雲り。風強し。

 山荘の人に聞くと、地震計の設置場所は、湯ノ岳山頂付近のようだ。以前は、法海寺周辺に設置したそうだが、常磐自動車道の波形まで拾って、移転したそうだ。

震災報告72−3月27日(月)晴れ。

 朝のニュースで東電福島第一原発でかなりの水漏れ起きているようだ。海に流れ出しているとのこと。昨年末、野田総理は、事故収束宣言を出したが、何が事故収束宣言だ。津波による原因だけでなく地震による原因で第一原発事故が発生したとも考えられる。東電・政府は、あらるゆ可能性を考えなくて、何が収束だ。ロードマップ工程表に沿って、その通りおこなった。

 ▽20:00 地震緊急警報発令、岩手県沖、M6.4 震源の深さ10`、震度5弱岩手県、宮城県
 ▽20:02 岩手県沖、M5.1、震源の深さ10`、最大震度4
 いわきは震度2
帰宅し下車するためエンジンを切ろうとしたとき、ラジオで緊急警報が出たのを知りました。いわきは、震度2とのこと。

震災報告72−3月28日(水)晴れ時々曇り。風強し。風冷たい。測定器2台借りる。うぐいすの初鳴き。

 今日は、アメリカ東部ペンシルベニア州スリーマイル島の原発事故(1979年3月28日)の日です。

震災報告72−3月29日(木)晴れ。風強し。天気は晴天で日差しは春のぬくもりでしたが、風が強く寒さを感じました。

 今日、初めて東京電力福島第一原発の20`圏内警戒区域の地元避難者と同行し、楢葉町に入りました。そこは、シンーとした人の気配のない町の姿でした。一年以上経ってはいますが、2011年3月11日、あの日のままです。これが、原発という、人的大災害がもたらした状態の極々一部です。見えない恐怖が忍び寄ってきます。

常磐線の鉄路は、赤くさび付き、雑草が生い茂っています。あたかも、廃線になった鉄路のようです。あの大震災以来、一本も列車は、この鉄路を走っていません。鉄路の外見には、地震・津波によるさほどの被害は、見受けられません。

昨年の大震災で、避難の広報活動をおこなっていた消防車は、無残な姿になっていました。

この家の家族は、新潟に避難しているそうです。

毎年田畑を耕し、苗の作付けの準備をしてきた、この時期、その人影は、まったく見あたらず。寥々たる秋草の大地に、瓦礫が放置されたまま。この一年の原発事故の恐ろしさが、ひしひしと覆い被さってきます。

町のライフラインの一つ浄化施設は大きく破損し、復旧に2〜3年はかかるとのこと。

堤防は、無残にも破壊尽くされました。写真の真ん中付近の断崖は、かって延々と30`以上あり自然豊かなところでした。この先に東電福島第二原発があり、さらにその北に福島第一原発があります。

堤防が破壊されたその奥の、煙突は、福島広野火力発電所の一部です。地震と津波で今は、操業停止中です。

家屋の外観は、遠くから見ると住めそうに思えますが

乗用車は、1年間このまま放置されています。

木は、根こそぎ津波で流されそのまま放置です。

駅前にあった観光案内は、寂しそうでした。楢葉町には、この木戸駅と竜田駅がありその一つ

 立ち入り禁止の画像は、2011年4月6日撮影したものです。2012年3月29日の楢葉町の一部。ここの奥で全国警察署から支援を受けて警戒している検問を通過して楢葉町に入りました。やむおえず避難し留守になっている家財を守ることが主たる目的です。

 以前、この六号線を通って、盛岡、大船渡、仙台に行き帰り通行しました。また、浪江町の大堀焼きの窯元さんから粘土を分けてもらいに、この六号線を何度も通しました。

放射線測定器いわゆるガイガーカウンターと言われる計測器を、役場からこの地域入る時に携帯・計測すること、さらに積算線量計も携帯し、許可書とともに携行しなくてはなりません。特に線量の高いところは、放射線防護服も必要になります。私が持っていった計測器と同行していただいた猪狩さんの計測器とは、ほとんど同じ計測値でした。

震災報告72−3月30日(金)曇りのち晴れ。

 ゴミ出し。屋根に登るのが危険な為、従来からあるアンテナはそのままにして、新たに二階のベランダに6bの鉄棒にアンテナ取り付け。デジタル対応八木アンテナ設置作業。テスト完了。ここ福島(東北3県)では、今月末31日正午でアナログ終了とのこと。放射線測定器1台返却。

 粘土購入のため笠間のシンシュウホクシンに行く。▽今日、午後2時28分ごろ地震があったとラジオで報道。M5.0福島県沖。浜通り、中通り、宮城県で震度3

震災報告72−3月31日(土)曇りのち雨。強風。夜晴れ。風止む。

 HP編集。災害用のテレビもう映らなくなりました。デジタル化移行の為です。15年以上使用してきた白黒テレビです。3.11の時大いに役立ちました。ありがとう。災害用テレビは、ラジオとライトが使用できます。

放射線量の測定では、この付近は、地上1bで0.5〜0.7、地表面で1.1451〜1.892を計測しました。

町の商店街に一台の車が止まっていました。新潟に避難している被災者で、地震・津波の影響は全くと言っていいほど無く、家財の整理と、空気の入れ換えに戻ってきたそうです。仙台にいる息子さんが、新潟に向かい、新潟に避難している家族と共に帰ってきたそうです。

一年前避難命令が出、町の人々は、情報が無いまま、逃げまどい、仮の落ち着き場所まで何回も転居を余儀なくされた。駅の駐輪場には、一年前のそのままの状態です。鉄道は動いていません。

野鳥のさえずりも聞こえてきません。荒涼とした田畑は、原発事故がもたらした代償です。

踏切の所、亀裂がそのままでした。

ここらあたりは、津波の被害もなく、地震での家屋の倒壊、破損は、外見上は見あたりません。ただ家の瓦の瓦解も各所で見られ、雨漏りの心配があります。

地図をクイックすると拡大します

震災報告73−4月1日(平成23年度末)へ進む

 極一部の住宅で屋根の修理(応急的)が白い防護服を身に纏った業者が作業を行っていました。確認できたのは、一軒のみでした。ここ楢葉町には、東電が作ったJブィレッジがあり、女子サッカー「マリーゼー」の本拠地になっていました。ならは道の駅と共に、東電事故処理の最前戦機地になっています。

 原発事故さえなければ、すでに一年復興の足音は、大きくなっていたでしょう。若い人も、子ども達も嬉々としていたに違いありません。











前方が、広野・いわき・水戸・上野方面

前方は、木戸駅舎と歩道橋・相馬・仙台方面