□(三十六)石見の大地震
明治五年甲二月四目恰も庚申の目尓(しかり)*り天氣晴朗風もなく幸福なる目和たり余は午後より前家竹村屋の長男中村注五郎子を伴い海濱尓凧を阿希て遊び居た里る三時過尓てもあ良ん*異様の震動を感ず其時*阿まり激し可良す***可も*めす*も後祖父と共尓分家石原*風呂入り行き祖父は余を先に入らしぬ(め)自分は衣を脱せんとて風呂場より出せしかと**ふ間もなく大声を阿げて余を*呼す何事あらん伸*よりて見れば風呂場は由らゝと動揺せり桶より飛出し出んとするも立つる事能ず**可良這出るれは祖父は**して余を抱き上げたり時尓余は年九才いまだ地震の恐る*(べ)きを知良左りしが物の倒る・ヽ響、瓦の落る音と共尓四方八方阿*喚叫天地は一時尓破*せしくの*き恐怖の念は次第につのり余は祖父に抱きつきし飛*ひたりん可暫くして震動の小止みとなりし頃を見計ひ自宅に帰り***母や近隣の人達と共尓濱辺に引上ありし漁船中に*されたり震動は引切奈しに断績し*良内*伝の見*なく*具衣類食器等を**ひ船底の計を定め*戸は***たれ*戸主たる者交代して自宅附近尓見張をなし火災盗難の監視ホ**初めは毎冒大小の震動**若くは十分生きに*らしが目を経る尓績ひ遠くなり次第時期に遠し自宅尓戻る蘇生の想を*せしは二十餘鉄目を経過せ*二五六頃可して其間船中に於いて出産し奴記会を話せし*も少なしとせす幸いに海踊の**大災の害を見*りしは不幸な可の幸いなりし可通路の亀裂畑圃の凸凹等の跡を見れは其惨状***たる*ある我石列東部の被害は比較的軽可りしも迩摩郡の温泉津那賀郡の濱田の如きは怪も震源地めれく家屋建物の倒壊人畜死傷等なく安濃郡志学の如き亦激烈尓して山崩の**全戸地中に埋没せる可の阿り***尓温泉津濱田の如きは火災を起し倒壊家屋尓一*せられこれを*ふに途なく**可良焼死せる者を*せるは**の極を*は左る*可らず我家にては祖父*分家の菊に*叔父を伴ひ行者堂の前に仮小屋を**行者の尊像を移し震災中避難の**りしか幸いに何等の被害なく経過す

(三十七)火柱の事
大地震前年の暮或る夜朝鮮沖に*り火柱立ち起り西天一帯**宅に焼*り暗夜戸の隙間より光を透し室内と*あ可るく*れる事阿り人々恐怖し何ら天変地異の前兆**良すや*噂どうゝなりしが果たせる哉其翌年二月前頃休記述せる大*未曾有ウの大震災尓遭遇す地震と火柱とは何等の関係なきか知良左れとも不思議なる顕象なりき。

1872年2月4日発生した島根県浜田沖地震の被害の様子の貴重な記録です。(島根県立大田高校からの友人の木村技研の木村次雄君から送ってきてくれた資料です。)

 数年前から幕末に生まれ明治時代に邇摩郡(にまぐん)、安濃郡(あんのうぐん)の人々を北海道に移民しました。その中に居た一人、久手町波根西出身の米田和一氏(久手小学校一期生)の「縦横無尽録」(北海道大学・北方資料館保存)からの資料です。

震災報告47へ戻る

震災報告トップページへ戻る

(一五)苅田神杜
神名帳尓は波根村にある式内神杜尓して祭神は苅田丸、田村麿)神社記には苅田比古命、苅田比姫命、倉稲魂命と阿り鎮座は寛平七年己卯八月近江國甲賀郡上安村より勧請位階は正四位上(延喜二年贈位)と阿り。

當社の旧記

當山去湖水岬方*二十余丁其處惣而称神谷山此山中有直立大巌石此称烏帽子端往古鎮座地也延喜式神名帳日若狭國遠敷郡十六座内苅田比古神社苅田比姫神社二座興富社同神而五穀霊神也。自**奉祈豊讒祭祀最厳重也然数百年前洪水山崩谷裂本社及末社拝殿楼門廻廊鳥居等*水容浮漂流*湖水唯本社一宇苅田川末湖水一丁計上有大柳樹*此柳樹**湖中此時神鳳筥三個内一個沈入千湖中不知去處所遺神鳳筥主詞等奉挙遷宇神谷山麓其今之地也古れ我可生国波根西村の村社尓して明治四十一年尓至り久手大元神社柳社大元神杜を*社に合祠す村内市街地として人家の優たる所は、久手柳瀬にて本社の所在は字上ケと称し中心市街より距離有り余程(来社)の不便なるが多めにや近来其社を久手柳瀬の中央駄(馬)飼山辺に移築説ある給らに古跡能廃城せしむるは惜しき感あり。



 注;漢文の内容は次のようなものであろう。(木村次雄訳)

當社の旧記
1.当社は湖水(波根湖)の岬より二十余丁の場所にあり其の場所を神谷山呼ぶ。此の山中に直立した大巌が有り烏帽子端(エバシバナ)と呼ぶここが昔、神社が鎮座していた場所である延喜式神名帳には若狭國遠敷郡にあった十六座のうち苅田比古神社、苅田比姫神社の二座お当社に興したと曰うこの神は五穀霊神であり、昔から豊潤の祭祀**を奉る。しかしながら数百年前、洪水(津波)により山は崩れ谷は裂け、本社と末社、拝殿、楼門、廻廊、鳥居等が湖水に漂流した唯一本杜一宇が、苅田川の末の湖水一丁計に大きな柳樹があり、此時神鳳筥三筥の内一筥湖中に入り行方不明になった、が残りの神鳳二筥と詞を奉還し神谷山麓に祭った。これが現在の神社である。


2.洪水(津波)は、万寿三年寅(1026年6月17日、旧暦5月23日)の大地震による一人丸終焉の地、鴨島が海中に没した)。(2011年10月1日まほろんにて産業技術総合研究所の寒川旭先生に確認−渡辺)


3.縦横無尽録が記述された頃には苅田神杜を現在の地に移設することが議論された。昭和三年に現在の地(米田家が信仰した行者山に移された)

(十二)波根の郷
石見の東端出雲の國境に接する所を安濃郡波根の郷とい不。昔は波根八ケ村と称し波根東西、朝山、仙山、山中、才坂、神原、刺賀(現在は刺鹿=さつか)等に別れしが町村創**し乃際朝山、仙山、山中、才坂、神原を合併して朝山、富山とし云れ尓波根東西刺鹿を加えて五ケ村となる。町村創り後は各村独立せりと安り其以前は波根東村にある八幡宮を御社として崇祭せり単に波根と云えるは東村の事にして波根西村の方は主として、久手柳瀬昔の宇名を呼び単に西村と云るは、一の字に過ぎざりき波根の古名は端根尓て順和名沙には波禰とあり。須佐能男尊御児*岩坂命国を巡り座時出雲端根成りと記*有りし故神亀三年より波根と更むといふ。

(十三)波根西村
波根西村は波根湖を中心として波根の郷の中央に位し東西十五丁南北三十丁面積五百町歩戸数七百十九戸人口四千二十二人。東は波根東村尓接し西は刺鹿村と隣り南は富山、朝山と界し北は目本海に眺む村内は久手柳瀬、大津上ケの四区に別れ村役場郵便電信局巡査駐在所米穀輸出検査所水産組合事務所小学校銀行停車場等何れも久手尓在りて予ら生まれ故郷たり。石見八重葎抄尓は東郷の西にあり故に波根西と称すとある又伝説に俗れば附近一帯の平野は、太古一面の海尓して現在(or今)の波根浦より大津に入り西村の山林原尓沿ひ刺鹿村字江谷より辻の高臺(台)に追り鳥井村字鳥越長崎を経て新田より百済岬に出し毛のといふ。現に久手西川柳瀬より波根海岸に至る海域沖積層砂土は云れを証す故ホ海岸に連なる山脈は其当時何れも海中の島崕なりしと云ふ。(本論第三石見名称由来の項中大国村付近の変化が萬寿三年の高波(津波)の為めあり此地の変化亦は時*)村内の景勝地等に史跡伝説亦徽しとせす。波根湖と掛戸橋鰐走の古城跡苅田神社観音寺河元寺行者山等の由来机島の奇岩等項を改めて記述せん。


 (一四)久手の名称由来
波根西村の西端目本海尓面せる所を久手浦といふ一小湾形を成し西風は防ぎ難しと(を)楚小風を防ぎ一の漁港尓過ぎされとも近海に在りては*少*荷役に便なり古来和船の船附場として見らる岡田太郎*氏可漁船を有し近海航路を始めしより大阪商船会社の寄航地ともなり。又、山陰鉄道開通後久手に停車場を設けられしより、海陸*路の便一層開ら希物資の出入り亦増加す。戸数四百戸餘隣村刺鹿村西川市街と接続し六百戸餘の市街を形成し名(各)称の**発展し郡内大田尓*くの盛況を呈す。

石見八重葎抄によれば久手は、神代名把下(クチシタ)とあり事代主之命御*を*八玉神を*て天八十*良器を作り***大*の宿彌尓*と今の出雲國の内海松江より田儀迄十七里*く水海なり。此の水海**底土*島となりて可ワエ上け石一右)土器を焼可せ玉ふ其の焼釜土を此所の海辺の山より**りし**越夫を把下と読り有りしより*く後世久手浦と改む把下とは今云ふ土器を焼く土の事なり。(古事記尓よりといふ)

久手と西川は町続き尓と一見一町村の形を成せるも村を異尓し自然と人情気風を異尓す西川は、質実穏健尓して久手は軽薄浮華の傾きあり。西川は保守的にして、久手は、進取的なり此素質の相*る萬時に顕はれ居る*のく如く思はる。



参考資料;明治12年戸数、人口;波根東370戸、1744人 波根西846戸、3618人 大田435戸1679人 松江8710戸、37611人 浜田1681戸、6586人(「島根県の百年」より)

 注;浜田と大田市久手町の直線距離は、約50`です。久手町と松江市までの直線距離は、約50`です。松江には、島根原発があります。島根町は、市町村合併で松江市に編入。県庁所在地で唯一の原発です。地震の少ない県だと思っていましたが、2000年の鳥取西部地震M7.3、今年の3.11東日本大震災の余震と見られている地震が、多発しています。