◆1960年代の青春時代の思い出 【自転車旅行】 ◆■ 【自転車旅行】紀行文 第壱部■
2001年8月10日/2010年8月25日更新


紀行文--思い出・自転車旅行

21世紀の初めにあたり、高校生3年を迎える春休みを利用して友達と二人で中国地方4県めぐりをしたことを思い出します。お世話になった方々への感謝の意を込めて。 写真は、2001年当時まま変更せず、使用いたします。

著渡辺音芳




1983年頃の久手港の風景


昭和36年正月同級生の森山君と図書室で「自転車旅行してみないか」と話し掛けた。森山君は「ウン、行ってもいいよ。」長久に住んでいる森山君とは、ルーテル教会で何回か一緒になったクラスメイトだった。私の場合、キリスト信者とはほど遠い存在だったが、クリスマスイブに知らない人と、話し合うことや、賛美歌を歌いながら、信者の家庭を訪問する楽しみがあった。高校生になってから知り合ったのは、云うまでも無い。

計画を立てる段取りに直ちに入った。峠越えをして、広島に出て、岡山に向かう。さらに、再度中国山地の人形峠を越え、鳥取県に入り、日本海を西へと走るコースとした。ちなみに、自転車は、昔の自転車で、いわゆる実用車というのだった。今のような、5段変速とかマウンテンバイクなどと言ったハイカラなものではなかった。

足慣らしに、三瓶山まで行き、さらに浜原に出て、湯抱温泉を通り、吉永から大田・久手に帰る予定で、寒い2月の初めに慣行した。冬にしては、天気はよく快適に、三瓶に向かった。

毎年、三瓶山には、高校の行事として春の遠足があった。名のとおり三瓶まで歩いてさらに山頂まで登頂する高校生らしい行事であったことは、思いで深いものがある。又、倶楽部活動(科学部化学班)の三瓶山周辺の温泉・鉱泉の水質検査(総合研究)で夏に毎年行なっているので三瓶は、容易いと思っていた。しかし、冬の三瓶は、初めてであった。<2001.2.19記>

≪続く≫


聖原人形福助


小学校からの友達で同じ科学部の山尾君と出かけることにした。山尾君とは、中学の時、久手科学・数学研究会を作り、井原君らと、手製の望遠鏡を作り日食観測や、数学の幾何学の問題を解き合いをした仲だった。

久手を出るときは、よい天気だったが、川合の物部神社を過ぎ、小林鉱泉からは、三瓶まで上り坂が延々と続く。黙々と、ぺタルを力強く踏みしめながら昇っていく。今は、三瓶山までは完全舗装だが、国道九号線の市街地のみ舗装されていて、車が走り去るものなら、土煙と、車の轍が往来の通行人を悩ませた。いわんや沿線の住民は、困ったと思う。雨が降れば泥道になり、轍に雨水が溜まり、車が走ると、泥水が撥ね付けて、通りすぎていった。当時は、自動車の数も少なく、石見交通の乗合バスとすれ違うくらいなものであった。

むろん、人家は無く、冬景色の三瓶路を見ながら、池田ラジュウム鉱泉の看板を右手に見ながら休憩をとる。すでに、池田ラジュウム鉱泉には検査に2回ほど来た。今年の夏も、来るが、新一年生は、何人ぐらい入部してくれるかな?などと、胸算用した。

今の年になると、温泉に入れば心地よいと思うが、当時は、高校生と言う若さの生で、そんなことは、考えもしなかった。二〜三十分してから三瓶山に向け出発した。池田の人家に入るがすぐに、急な上り坂に出くわす。西ノ原の定めの松で休憩。この季節人っ子一人居ない。売店もお休みだ。やはり、寒い。

浮き布の池へ向かう。小さな小屋が目に入った。牧草や藁を保管している小屋のようだ。弁当を食べるのと、寒さから身を守ろうと、その小屋に山尾君と共に入った。無論、火などは無いが、藁は、以外にも暖かかった。御袋が作ってくれた弁当を食べて一休みしてから、志学へと向かい、温泉街を通りぬけ、浜原に一気に向かう。<2.20記>

≪続く≫


極細字


邑智まで下り坂が続く。きわめて快適だ。中国太郎の名で知られる江川に出た。青く澄んだ水は、時の流れを忘れるかのように悠々と流れていた。このあたりでは、江戸時代から、和紙の生産がおこなわれていたようだ。木桶の大きいので、こうぞうを蒸していた。冬の風物詩だ。しばし、湯気の湧き上がるのを眺めていた。最近、邑智町を通ったが見ることが出来なかった。日本の文化がここにも無くなっているのはとても、残念に思う。後を継若い人が居ないのが原因のひとつだと思う。02.25記 <続く>

浜原のダムを見てから、川合方面に向かう。途中湯抱温泉に寄る。湯抱温泉は、柿本人麻呂や斎藤茂吉のゆかりの地であり、暖かさのある山峡の静かな出湯の町のように感じた。小さい川に小さな橋が架かり、人通りもまばらで山里の出湯の鄙びたたたずまいの部落に茂吉の歌詞の稗があった。

湯抱温泉を後にして岐路につく。川合の物部神社を通り、国道九号線に入り、大田の町に入った。すでに夕暮れとなり、商店街の明かりがつき始めていた。

当時、大田には、映画館がオリエンタルとセントラルの二館あったと記憶している。大田の町の舗装は、コンクリートで出来ていた。三瓶川を渡り、柳井を経て久手に帰る。日はとっぷりと暮れ、西川の踏み切りで山尾君と分かれた。

本番の自転車旅行の場合、三月末とは云え寒い時もあろうことも考えに入てなければならないと、つくづく感じた。又、一日の走行距離も山間部を通過する場合、時間を相当考慮に入れて計画を立てる必要が有り、雨の日もあることも十二分に考えるが、さらに計画の具体化を進めることにする。<02.28記>

≪続く≫


伊勢原の田中の町(2001年2月27日撮影)

田中のしだれ梅の町並み(2月27日撮影)


三月に入って期末試験が終わってから、担任の宮脇先生に中国地方自転車旅行の計画を提出しに職員室に行く。先生からは、引率者がいないのに許可するわけには行かないとのこと。許可は、残念ながら出なかった。

自転車旅行を最初に計画したのは、久手中学の時だった。その時は、久手から三次に出て、広島までの行程で、往復の行程と言うのだった。その時は、四、五人で夏休みを利用しての計画したが、今回と同じように当時の中学校の担任の先生に話したが、引率する先生がいないとのことで、頓挫した。

中学の時の計画は、かなり杜撰で、予行練習もしていなかった。宿泊先も何の検討もせずに、先生に話したのがあまりのも無謀という外は無い。 今回は、何としても成功させるべく一月以来計画したが、学校としての許可は、得られそうに無い。

さすれば、無許可で行くしかない、と決断した。再度、森山君と十分な計画をと練り直しを再開した。 予行練習として、大森まで往復して足慣らしをすることにした。

国道九号線は、大森まで続く。今は、日本海沿岸を走っているが、当時は、大田から久利、大森を経て、江津に向かうルートになっていた。

大森は、昔から銀山として栄え、戦国時代は、尼子、毛利、大内の支配下になり、江戸時代には、幕府の直轄領となり、その最盛期には、人口20万を要すまでなった。現在は、世界遺産に向けて取り組んでいる。

わりと、スムースに往復して、無事帰ってきた。次回からは、いよいよ中国四県の旅に入る。<3.03記>

≪続く≫


長浜人形内裏雛人形


春休みに入り、いよいよ中国地方四県の自転車旅行に出かける朝となった。六時に大田郵便局前に集合と決めていた。おかさんがきちんとご飯を食べてから行きなさいと言ったが、寝坊したため急いでいた.味噌汁だけでも飲んで行きなさいと言うおかさんの声に、熱い味噌汁をふーふーしながら、そそった。弁当を持ち出かけることにした。

すでに、森山君が着いていた。ちょっと前に来たとのこと。いよいよ最初の目的地広島へ向け出発する。我々の門出を歓迎するかのように、春の日の晴れ渡った朝だった。川合を通過し、山間地に入る。快走する。

この前、予行練習の時の逆コースをたどっている。邑智から江川と分かれて赤来に向かう。昨年夏、お世話になった、科学部の先輩のお宅を、久手港で取れた魚を自転車に積んで、訪問したことを思い出す。山間の酒谷まで来て、中原さんのお宅に一泊した。

その時は、中原先輩は、残念ながら留守だったが、お母さんに手厚く心のこもったもてなしを受けた。私の海の魚に接し食するのは日常茶飯事だが、当時は、ここ酒谷では、珍しいことで大変喜ばれた。魚は、すぐ卸され、味噌漬けにされた。保存食としてとの事、私には大変珍しかった。

酒谷を過ぎると、急な上り坂が続く。自転車を押しながら、上って行く。さすがに、きちんとした朝食を取らなかったのが災いして、力が出なくなった。森山君にもうそろそろ飯にしないかと問いかけ、少し早いが、弁当を取ることにした。しばらく休んでから、赤来に向けてぺタルを踏む。奥出雲の山間地だ。

数年前までは赤名の地名だったが、来島と赤名が合併して、赤来町となった。出雲と安芸の国を結ぶ街道だが、一番の難所赤名峠がある。今は、トンネルが出来スムースに国越えすることが出来る。私たちの自転車旅行の時は、峠越えをしなければならない。ほとんど自転車を降りて押しながら峠を登る。<3.14記>

≪続く≫


伊勢原淨発巌寺奥の院跡


小学校の一年生になった五月休みの時、おかさん(母-スメ)と明治7年生まれの94歳まで生きたばばさん(祖母−スワ)と一緒に、兄-良平がいた広島に行った事がある。大田からバスで赤名峠を越えて、広島まで行ったことを思い出す。終戦から5年ほどしか経っていない時代で、山陰と山陽を結ぶ国鉄は、山口を回るか、宍道から山越をするかと言う状態で、三江線は、北線、南線に分かれ、つながっていなかった。
でこぼこ道と曲がりくねった赤名峠を、車酔いで三次のバス停に着いた時は、ぐったりとなったおかさんを思い出す。また、とっあさん(父-藤二郎)が、馬車で三次まで久手で作られていた醤油を、運んだと聞かされていた難所の峠だ。

赤名峠の下りは、快適だ。

広島県に入った。
三次にやっと着いた。すでに夕方近い。高校生の当時は、郷土玩具にはあまり関心が無かった。三次に尽いても三次人形の存在すら、知らなかった。今にして思えば、伝統のある玩具は、もっと早いうちから知るべきだったと思う。夕闇が迫る中、今日中に広島までの予定だったが、無理をすれば行けなくは無い。三次を過ぎて、少し暗くなってきた。

森山君と相談して、学校にでも泊めてもらえないかと、国道沿いの小学校に頼みに行った。当直の先生に、「泊まれるところが無いので外の所で探しなさい。」、と言われて断られた。すでに高田郡吉田町に入っていた。山のふもとに、お寺が見えた。お寺に行き、頼みに行こうと相棒と相談した。国道の左側に、雑貨屋さんが在ったので、パンでもと食べておこうと入った。それからでも遅くは無い。腹ごしらえが目前に迫っていた。

今では、どんな辺鄙なところでも、自動販売機があり、道路を蛍光灯の眩しい光が照らしている。国道沿いなら、コンビニがあり、多種多様な食品があるが、昭和36年当時は、雑貨屋さんにパンが置いてある。ゆうならば、村のデパートと言った感じだ。詰め入り学生服に校章の着いた学生帽での出で立ちが幸いしたのだろうか。おかみさんに、お寺の話をすると、「この近くに、民宿があるからいきんさい」と、教えてもらい、パンをほおばりながら、しばし話をする。感謝で一杯だ!。コンビニでは、出来ない光景だ。

既に、七時を回っていた。教えていただいた民宿に行くことにした。<2001.3.19記><訂正アンダーラインの部分07.15記>

≪続く≫


桜貝百人一首土鈴と聖原雛人形


雑貨屋さんのおかみさんに御礼を言って、お店を出てた。春の日は、すでにとっぷりと暮れ、肌寒さが堪える。1キロぐらい走った国道の右側にその民宿は、あった。民宿の名は忘れたが、小さなお店兼民宿と言った感じだ。

春休みのこの時期、満室で泊まることが出来るかどうか心配だったが、運良く空き室があり、こころよく泊まらせていただくことになった。八時は過ぎていたが、夕食の手だてもして頂き、在り難かった。又、お風呂も頂き、第一日目は、無事終えることが出来た。

自転車旅行の二日目は、あいにく、小雨となった。民宿のおかみさんからお菓子を頂き、お礼を言って八時半広島に向けて出発した。広島までほとんど下り坂で二時間あまりで広島の市街地に入った。

今夜泊まるところだけは確保しておこうと思い、広島の宿舎にしている郵便会館に向かう。広島城お堀の北側に郵便会館はあった。会館に着くと、会館の人から、「今日は、結婚式があり、夜八時以降には入ってください。」と云われ、荷物と自転車を預けて、雨の中、広島のまちの見学に出かけた。

ヒロシマは、先に述べたように、ニ度来た事が在る。あれから十年経っていた。今でも記憶にあるのは、生まれて始めて市電に乗って宇品に向かう途中、市電が原爆で焼けたまま、道路の脇に野ざらしになっていた事を、強烈に思い出す。原爆が投下されてから、五年九ヶ月経過してはいたが、いまだ廣島の町は、傷がいえていないころだった。

原爆が投下されたひろしまは、当時百年は草木も生えないと、云われていた。今、その広島に来ている。 相棒の森山君と共に、平和公園に行く。原爆ドームを仰ぎ、十数年前と大きく変貌したひろしまの街を感動とおどろきを目の当りにした。高校生の私にとって、大きな衝撃だった。 <3.29記>

≪続く≫


伊勢原市ふじやま公園の夜桜(2001年3月31日撮影)


もう少し広島の思い出を話しておこう。
宇品に向かう市電からは、街の風景は、まだ人家がそんなに立ち並んでいなかった。

島根教育科学研究会の『島根の近代史』(1968年10月発行)によると【八月六日の朝、安濃郡の久手港沖で操業していた漁師たちは、中国山脈のかなたに、大きなキノコ型のの雲があがるのをみた。広島に原爆攻撃を受けたのである。三日目の九日、300人の幽鬼のような被爆者たちが大田町へやってきた。旧制大田中学(現大田高校)と旧制大田高女(現大田一中)がこの年の三月から広島陸軍病院の分院となっいたからである。(昭和42年2月『毎日新聞』)。と記載されている。この日原爆二号が長崎に投下された。前日にはソ連が日本へ宣戦を布告した。
まもなく、八月十五日。敗戦の日がやってきた。十五年戦争が終わった。長い長い戦争であった。空襲の被害はほとんど無かったとはいえ、前述のごとく、島根も二万五、六千の尊い犠牲をはらったのである。
抵抗が圧殺されてしまった時、資本の論理は何を果たしたか、ふたたびこのことを問う形で本章を終える。】
と記載している。
これに付け加えるなら、韓国併合や中国、東南アジアの諸国での日本軍の侵略に伴う加害者としての責任とその保証事を認識しなくてはならないと思う。国内及び朝鮮半島における戦争追行のための治安維持法の犠牲者に対する国家賠償等など多くの問題が残っている。

兄に連れられて広島の中心街の映画館に、生まれて初めて連れていってもらった。小学一年になったばかりの五月の連休の時の事で、あまり詳しくは覚えれいないが、兄に肩車をしてもらい見たが、映画館が満員で映画が何だったかまったく記憶に無い。観客の頭だけやたら多かったことだけ......。

久手には港の近くに、芝居小屋が一軒あった。この経営者の息子に、私と同級生の友達がいた。唯一の娯楽施設だった。ここで、大衆演劇や、映画、手品など、見たことがある。しかし、広島の映画館とは、雲泥の差だった。大田の映画館オリエンタルとも比べ物にならない。広島の中心部に位置する百貨店にも行った。世界遺産になった宮島にも行き、鳥居が海の中に立っていた。

小雨の中広島の街を散策する。夕方、宿舎に向かう。突然、パトカーが私たちの脇に止まった。びっくりしていると、お巡りさんが降りてきて、「何をしているか?」と問い詰められた。詰め入りの学生服で小雨がしとしとと降っていたため、車が来たため傘を泥除けに斜めにしたのが怪しまれたらしい。
「この先の郵政会館に今晩泊まる予定ですが、会館の方で結婚式があり、八時までは入れない。今広島見物に行ってきた帰りです。」と告げると、一応了解してくれたらしい。大田高校にでも連絡されたら、大問題になる。何しろ無許可で自転車旅行をしているのだから、停学とかの処分が下るかもしれない。警官に職務質問を受けたのは、初めてだった。この自転車旅行の最初の事件だった。

ようやく、無罪放免でその場から離れ郵政会館に着いた。食事を終え、風呂に入り第二日目が終わる。<4.06記>

≪続く≫<追加アンダーラインの部分08.09記>



梨畑(4月14日撮影)と 芝桜<伊勢原市小稲葉--渋田川西川橋近辺--(4月14日撮影)


三日目の広島の朝は、薄曇だった。
国道二号線は、西条(今の東広島)を通るが、山間部は出来るだけ避け、瀬戸内にコースを取り波静かな春の風景を見ながら快走する。呉を過ぎるころから、肌寒くなってきた。竹原の手前あたりから雨が降り始めてきた。

途中で雨宿りをする。小降りの中再び、傘をさして三原に向かう。私の自転車のぺタルが回りにくくなってきた。昨日、広島に向かう時、少しぺタルがきしむ音がしていた。

雨で、油が切れていたらしい。ベアリングが磨耗したかもしれない。自転車屋さんに駆け込む。油をさしていただく。この自転車も私が、小学校2年の時にから、乗っている真中が三角になっている、荷台のがっちりしたいわゆる実用車と、言われている代物だった。

乗り始めたころは、サドルに腰を架けると、足が届かないため、三角の間に足を入れて扱ぐのが小学生の定番だった。

瀬戸内海の風景などを見る余裕は、無くなっていた。やがて三原の町に入った。相棒の森山君が、ルーテル教会を見つけた。森山君は、教会の熱心な信者のようだった。今晩ここに泊めてもらおうかと、話ながら教会の扉をたたく。

神父さんと奥さんが出てこられ、ずぶ濡れになっている私たちを、怪訝な顔で迎えていただいた。無理も無い。学生服で、当時自転車旅行など、そんなに有り触れていなかった。私が、「軒下でもお借りして今晩泊めてください。」と懇願した。<4.19記>

≪続く≫


お店の猫たちと親猫の「あこ」が3月末に生まれた子猫をあやしている所(4.26撮影)


神父さんが、「濡れていて風邪を引くといけないから、入りなさい。」と言われ、二人は、自転車を教会の脇に置き、御私宅の方へ招かれた。三原で泊まるところが無ければ、三原の駅でもごろ寝でもしようかと森山君と話し合った矢先、教会が在った。

森山君が大田のルーテル教会の話を進めていくうちに、わだかまりがだんだんと解けて、泊まっても良いこととなった。感謝、感謝、。

奥さんの手料理で、夕食を御馳走になった。私は、初めてルーテル教会の食事の仕方にちょっと戸惑った。私の実家は、曹洞宗で、手を合わせて、「頂きます。」と言って食事をするが、教会では、牧師さんが、「ここに兄弟がはるばると、来たことに神に感謝します。」と、神に感謝の気持ちを伝え、皆で「アーメン」と言って食事が始まった。

食事をしながら、歓談した。話に寄ればこの日は、大阪では、小雪が舞ったそうだ。三原の駅構内のベンチで野宿でもしようと思っていたことを話と、「風邪を引いてしまいますよ」奥さんに笑われた。

ほんとに助かった。冷え切った体も暖まり、おまけにお風呂まで頂いた。

翌日は、晴れてほんとに春らしい日和となった。四日目は倉敷までの行程だ。出発する時、三原ルーテル教会の牧師さんと奥さんが見送りに出ていただいた。その時の話だと、昨夜、奥さんが警察に届けようかと思ったことを、知らされた。でも、笑顔で見送っていただいた。ありがとう!。牧師さん、奥さん。<04.25記>

≪続く≫



津古久峠の茶屋跡
小田原北条時代は小田原と八王子を結ぶ)軍用道で、江戸時代には大山参りの道となり、
ここにお茶屋があった。と記されている。(5/06撮影)


国道二号線をひた走る。山陰の国道とは大違いだ。道幅は広い上、市街地以外でもアスファルト舗装がいつまでも続く。春の日が、私達の自転車旅行を応援しているかのようだ。尾道を過ぎ、山陽の瀬戸内海を見ながら福山に向かう。

三年前の秋、大田に帰りその足で、山口のお客さんのお宅を訪問した際、宇部の同級生の松原靖人君の「スタジオまつばら」を訪問しその帰り、車で山陽道を久しぶりに走った。その時、台風が追っかけている時で、宇部を出る時は、どしゃ降りで風も強まってきた。岩国から広島に向かう時、風雨が強まり、夜間走行中に危険を感じ、バイパスのパーキングにて駐車して、仮眠を取った。

翌日、広島を通り、岡山、姫路、と国道二号線を走った。三十数年ぶりに通ると、バイパスがあり、コンビニがあり、自動車が多いことと、自転車旅行をした時代とは、まるっきり変わっている。

福山に昼過ぎに着いた。森山君の提案で福山ルーテル教会ほ訪問することにした。福山ルーテル教会の神父さんが応対に出られ、歓迎された。客間に通されこの自転車旅行のことや、大田のルーテル教会の話をした。

「お昼はまだでしょう」と食事を御馳走になった。

しばらくしてから、倉敷に向けて出発した。山陽道は、穏やかな瀬戸内海の海辺から遠ざかり平野が続く。

岡山県に入った。
昨日の私の自転車ぺタルは、少し軋むが、いたって快調だ。

夕方、倉敷の私の親戚のお宅に着いた。ここのお家は、私の母方の親戚になる。予め、手紙で連絡を取っておいたから、叔母さんが、「よく来たね、無事で何より」と、私達二人を迎えてくれた。<5.05記>

≪続く≫




工房の脇に生えている、子供のころよく食べた桑の実(ジャムすると美味しいよ)と野ばら


叔母さんの手料理で御馳走になり、江谷のばばさん(私の祖母)のことや、母のことの近況、今回の自転車旅行のエピソード等話をしながら疲れを癒す。お米二升持っていたのを倉敷の叔母さんに、お世話になったお礼に差し上げる。泊まるところが無い時に、お米でも炊いてと思って持ってきたものだ。

お風呂を御馳走になり、四日目が無事終わった。

五日目の朝は、晴天だ。叔母さんに御礼を言って、岡山へ向けて朝8時出発。時間があれば、倉敷や岡山見学するのも良いが、なにせ、春休みの期間中の自転車旅行と言う限られた条件、見るのは又の機会にするここにした。

とはいえ、十年後バイクで東京から田舎まで走行した時倉敷に寄った時と、四年前、岡山の丸善で実演・販売を行なった時に訪れる機会があった。バイパスが出来ていたり、国道二号線のほとんどが二車線になり、当時とは比べられないほど自動車の往来が多い。特に、トラック中でも宅配便のトラックは以前にはなかった風景だ。

ほとんど行程差の無い山陽道を春の日差しを受けて、岡山に向けてひた走る。

岡山から、旭川に沿って北上する。目指すは津山の町だ。川面に春の日が映え、田んぼには蓮華草が咲き、黄色い菜の花畑を通りすぎる。

快調に走っていたら、突然のアクシデントが発生した。自転車のタイヤのパンクだ。町まではかなりある。パンクの修理をする。荷台の大きな自転車だから、出需品は積んでいた。<05.19記>

≪続く≫




工房の葡萄の花と伊勢原土鈴葡萄土鈴


津山街道を北へ向かう。段段と勾配がきつくなってきた。旭川の渓流を眺めながら、一昨日のぺタルのきしみも気にしなくなり、えちらおちらとぺタルを扱ぐ。サドルがお尻をいたみつける。五日目になると、お尻が痛い。休憩も多くなり始めた。

この先、明日は最大の難関、人形峠を越さなければならない。

絶え間無く上り坂が続く。山間部に入ると道路は、まだ島根と同じように、舗装はされていない。今のように自動車が多くなかった。

1970年代初めまでは、東名高速が出来て間も無いころ、中古のスバル360愛称てんとう虫の車を手に入れ、東京から伊豆まで行く途中、空冷であったのと、夏の暑い日も災いして、エンストしてしまったことがある。車を路肩に止め冷えるのを待っていたら、一般の乗用車が止まってくれて、どうしましたか?と声をかけられたことがあった。のどかな時代だったような気がする。

時代はさかのぼるが、私が小学校3年のころだったと思うが二階建ての県下有数の久手小学校戦後間もない1946年(昭和21年)1月火災に会い、掛戸の近くの仮校舎にて学んでいた。車が火を出しながら、小学校の付近から国道を走り、いも代官の碑のあたりで、止まった事件があった。このころ宇高連絡船の紫雲丸転覆事件があったころ、松江の小学生の修学旅行の生徒が、沢山瀬戸内の海に投げ出されたと言う事件だった。時代は、移り変わり瀬戸内海道路や鉄道も開通した。

のどかな春の陽射しを受けながら、ぺタルを踏む。

ようやく、中国山地の城下町津山の町に入った。<05.26記>

≪続く≫<一部訂正と追加アンダーラインの部分08.09記>


安濃郡久手町立久手小学校入学当時の記念写真(高橋校長と担任の堀智恵先生)小学校は、杉の皮で拭いてありました。



伊勢原のあやめの里のあやめ祭り(6月2日撮影)(6月2日から開催中)


今から四年前、岡山で実演・販売をして、その足で大田まで車で帰る途中、津山の城山公園で仮眠を取った。 話は変わるが、この公園のトイレは大変綺麗に使われていた。思い出せば、綺麗な公園のトイレは、岐阜の美濃市の小倉山公園、このトイレは、夜入ると、自動的にライトが付く。朝近所の奥さんがトイレの掃除を毎日しておられると言うことだ。浜松の中島---    伊豆の伊東市のトイレも綺麗だ。車で移動する時には、車の駐車が出来、洗面、トイレの在る無しきわめて重要な必要条件だ。

しかし、多くの公衆トイレは、落書きや、出来て間も無いトイレでも洗面に必要な鏡などが心無い者によって壊されているところが多い。便器の汚物を流さないものもいる。公衆のトイレは、知らない人たちがお互いに使うところゆえ、綺麗に使いたいものだ。ゴミの持ちかえりは、当然のことだ。特に車で移動しているのだから。

脱線してトイレ談義になったが、本題のほうに話を向けよう。
森山君の計らいで、津山ルーテル教会に泊まることになっていた。津山のまちを自転車で歩きながら静かな城下町を通りぬけ、教会に向かう。

津山の地名は、どこから来たのだろうか。「津」のつく地名は、伊勢の国の津市石見の国の江津市滋賀近江の国の大津市草津、等河川の港の意味がある。盆地に港の付く地名が在るのはなぜだろう。山梨県・新潟県外に全国各地に、泊の意味の地名がある。群馬県の草津も、津山と同様山間だ。

ちなみに、私の田舎の久手と言う地名は、葦が生えていたところから由来している。高校二年の時久手の井戸の水質検査を行なったことがある。駅前区から壁の内区の井戸の持ち主からの話によると、井戸を掘ったとき葦が出てきたと言うことだ。地名には歴史があり、重みがあると思う。 織田信長の闘いの中で長久手の闘いがある。この尾張の国の長久手というのも、葦が生えていたと言うことだ。和辻さんの風土の本にも書かれている。

牧師さんが出迎えていただき、宿舎の確保が出来た。<06.09記>

≪続く≫



カタツムリ(6月12日撮影)とカタツムリ土鈴と紫陽花土鈴


津山ルーテル教会にお世話になり、5日目も無事終わり、いよいよ今回の最大の難所、人形峠越えをしなければならない。
六日目の朝もよい天気だ。ルーテル教会の牧師さんにお礼を云って、八時出発。津山の町を離れしばらくはなだらかな上り坂が続く。二時間ぐらい走ると、急な勾配になり始めた。

眺めの良いところで、小休憩した。木陰では高原の春のそよ風が、汗ばんだワイシャツを通して素通りしていく。心地よい汗が、肌を潤す。
今、地図を見ると、
人形峠は赤名峠と同じようにトンネルで山陽と山陰が結ばれているようだ。国道179号線は、兵庫県の龍野市から東郷町までの行程になっている。自転車旅行した当時は、トンネルは無く、まさに峠越えをする。ルートも違っているようだ。小一時間上り坂をゆっくりゆっくりと自転車をこぐが、平坦地のように進まない。いよいよ自転車から降り、自転車を押しながら急な坂を昇る。

やっと、人形峠の近くまで来た。ウラン鉱の採掘現場のようだ。中国山地の真っ只中と思われない赤土のむき出した所に、作業現場にあるようなプレハブなどが建っている。しばらく眺めていた。今は、この近くだと思うが、人形峠展示館が在るそうだ。

二年の文化祭に向けて、ウイルソンの霧箱の製作に取りかかったが、残念ながら芳しい成果が出来なかった。ウイルソンの霧箱とは、放射線アルファ、ベータ、ガンマー線の飛跡を肉眼で観測するための箱だ。霧を発生するのは出来たが、長時間にわたって持続する事と、三線の分離をさせるための装置が不充分なため、完成させ文化祭での発表が出来なかった。ウラン鉱の原石の少量が大田高校化学準備室にあり、化学の楫野先生によれば、人形峠の原石との事だった。又、化学班の部費から岩石のサンプルの資料として購入し、その中にウラン鉱の岩石も入っていた。この様な思い出を思い起こしながら、人形峠をあとにする。 <06.19記><一部訂正と追加アンダーラインの部分06.21記>
≪続く≫


じゃが芋の花(6月26日撮影)と野菜シリーズ土鈴

鳥取県に入った。
日本海に向けて下り坂まっしぐらと思いきや、ブレイキーをかけすぎブレイキーが効かなくなってしまった。熱を持ってしまったらしい。自動車の場合、ギヤ―をローか、セカンドでエンジンブレイキーを駆けながら下り坂を下るのが常識だが、自転車な場合もブレイキーのかけっぱなしでは、急な下り坂では危険だ。

少し歩きながら、あまりブレイキーを駆けないようにして下り始めた。思いもかけない事態だった。当初予定した時間より懸かってしまった。

三朝町の町から 倉吉の町を通り、五時過ぎ東郷町に着き、大田高校から転校した山口君のお宅へ着いた。山口君は、国鉄の駅長さんのの息子で、二年まで同じクラスだった。東郷湖を案内してくれた。

高校を卒業してから東京に住んでいた時、バイクの90CCで田舎なで帰ったことがある。夜東京を起ち一睡もしないで、兄と倉敷の親戚で待ち合わせをした。
兄は軽自動車で運転し、私は、バイクで人形峠越えをして帰りはじめたが、睡魔が襲ってくる為、東郷町の国鉄の駅前にばいくを置き、兄の車に乗り帰郷したことがあった。無論二日後バイクを取りに東郷町まで来た。

東郷湖の夕焼けは、素晴らしかった。カメラでもの持っていれば、いいのにな〜。絵にでもと思ったがなにも持っていなかった。目に焼き付ける以外何の方法も持ち合わせていなかった。今なら、コンパクトなバカチョンカメラが、コンビニ等にあるし、デジタルカメラもかなり安いのも出回っているようだ。文明の利器が無いのが良かったかもしれない。思いでとはそう云うものだ。<06.25記>

≪続く≫




自転車旅行の時の地図

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