◆思い出◆■ 【自転車旅行】紀行文 第弐部■ 2001年8月22日更新


紀行文--思い出・自転車旅行 第貳部


神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社と殿様蛙土鈴・親子雨蛙土鈴


山口君は、大田高校へ来る前は、昨年秋の鳥取西部地震の被災地の根雨高校から転校してきた同級生だった。最近の報道依れば、根雨高校が近くの高校と合併して、根雨高校の名が無くなると言うことだ。これで良いのだろうか?。

翌四月一日、七日目は、東郷町から米子、安来を経て、松江までの行程だ。私の誕生日と言うわけだ。別名エプリルフルとも云う。あるいは、四月バカとも云う。誰が付けたのだろうか。行政の新年度の始まりでもあるが、学校の新入学は、四月二日生まれから新一年生となる。だから、私の場合、生まれ順で行くと最下位だ。私の同窓生は、全てお兄さん、お姉さんと言うことになる。こんなことを考えたことは無いのだが。

山口君とが家族に別れを告げ、米子を目指してぺタルを踏む。伯耆大山を左手に見ながら、右手に日本海の穏やかな海を見ながひた走る。中国山地の山越を考えれば、平坦な道だ。数年前山陰道を車で通ったが、鳥取から米子までほとんど海岸線を通る。しかも道の駅もありゆっくりと休むことが出来た。道が良くなった反面夜間中国縦貫や山陽道を通らないで、国道九号線を九州や山口のトラック便が通り、関西に向かうらしい。

お昼過ぎ、米子に着く。≪07.15記≫

≪続く≫



夫婦河童土鈴と犬乗り童子土鈴


米子から松江までは3時間はかからない予定だ。パルプの町だ。日本パルプの工場の煙突が米子に入る前から見えた。米子駅に行く。米子駅でパンとコーヒー牛乳を買う。駅のベンチでお昼の食事とする。

米子を出て、よいよ神話と神々の国、出雲の国に入る。中海を右手に見ながら、安来節で有名な安来市に着く。安来節のどじょう掬いは、砂鉄を取る時の姿とも言われている。水玉の頬被りは、炎天下日射病にならないように、又は、砂鉄を溶鉱炉に入れ、三日三晩寝ずに日を守る「火男」がなまってひょっとことなり、火の粉から身を守る為に濡れた水玉の頬被りをした。あの独特な風情と踊りになったとも言われている。安来の駅の東側に安来製鉄のシンボル、煙突とのこぎり屋根の工場が聳え立っている。古来から砂鉄を原料にした玉鋼の産地でもある。現在は、我が国最大の和鋼の総合博物館の「和鋼博物館」がある。

中海干拓が大問題となっているが昨年やっと決着した。巨額の公費を注ぎ込んだこの昭和の国引きは、何だったろうか?美しい宍道湖や、中海を守ることが重要なことではないか。自然を壊しては、将来禍根を残すことになると思う。

安来を出て、いよいよ水と歴史の町・ぼてぼて茶の松江に着く。松江の宿泊先は、私の兄の知人のお宅にしていた。山陰最大の町松江は、江戸時代から松平のお城の町として、文化が根付いてきた町で、心落ち着く町だ。

いよいよ明日は、自転車旅行ゴールインの日だ。≪07.31記≫

≪続く≫アンダーライン部分は8月20日追加



実ったミニトマト(もうだいぶ食べました)と露草の花

山陰出雲市の遺跡群



兄の知人のお宅は、松江の津田町の住宅街だったと記憶している。兄の職場関係の方だった。
松江には、小学校の修学旅行で来たことと、大田高校科学部化学班を代表して木村君と、高校二年の春に県水質検査研究所に三瓶山周辺温泉・鉱泉総合研究の検査方法について訪問して、お伺いし役立てることが出来た。
三瓶山周辺温泉・鉱泉総合研究の発表を、浜田高校で行なわれた県高文連の発表会にて報告をしたことがある。

翌日、森山君は、ルーテル教会の復活祭に参加するため松江に残り、帰路は私一人で走ることとなった。浜田高校には、久手小学六年の時と久手中学一年の時に、山陰夏季洋画講習会に兄と、共に参加したことが在る。

八日目の朝もよい天気だった。朝宿泊させていただいた御礼を言って、森山君とも別れて一路、山陰街道を久手へ向けてぺタルをこぎだした。

宍道湖を右手に見ながら快調に走る。国道を左に曲がれば玉造温泉街に行く。川沿いに旅館街続く。静かな落ち着いた温泉街だ。玉造から再度国道九号線に戻り、宍道の駅前を通りすぎ、築地松で有名な出雲平野に入る。≪08.09記≫

≪続く≫



オシロイバナと工房脇の土手のオシロイバナをバックに大あくびの我が家のネコダッコちゃん


 平坦な出雲平野をひた走る。銅鐸・銅鉾が斐川の町、古代の伝説ヤマタノオロチとマガタマで有名な斐伊川をわたる。このあたりは古代に出雲王国が栄、豊かな土地だったに違いない。

 斐伊川をわたると、出雲市に入る。出雲は、大社町までの国鉄大社線、一畑電鉄立久恵線、一畑電鉄松江線の始発駅であり出雲大社にお、参りする際は、大社線を使っていた。又、立久恵峡に何度か行った事があるが、立久恵線を利用したことがある。今では、廃線になっているが、記憶の中には今も生きている。急行出雲号は、ここ大社からと、浜田から快速列車として出発して出雲でドッキングして急行として東京まで走っていた。夜行寝台列車として走り続けた。出雲には、今市人形、高橋さんの出雲の張子等の郷土玩具や、出雲民芸館がある。

 出雲から知井宮の駅前を通り、小田、田儀の村村を走った。最後の難所朝山峠を越えればいよいよゴールインだ。出雲の国と石見の国の国境の峠。今は、国道も難所越えをせずに行けるが、当時は、田儀から急な上り坂で波根までが大変だった。この日は、春特有の、フェーン現象で暖かく、山火事があったようだ。そんな中、やっと峠越えを終え、波根に向かって下り坂と一直線に降りて、波根の町に入った。波根には、小学校一年生の時の担任の堀先生が居られた。三学期には御子さんがお生まれになるというこで産休に入られた思い出がある。掛戸松島を右手に見、5年間通った旧久手小学校前を通り、午後3時過ぎ久手町上区の私の家に無事到着した。全工程約600キロ八日間の旅だった。


久手小学校入学記念写真高橋校長と担任の堀先生(草履や下駄履きもんぺを履いている子。杉の革の校舎横に石見瓦の置いてあるのが見える。)と久手中学校卒業記念写真

翌々日高校3年の新学期が始まり、宮脇先生が「渡辺用事があるから職員室まで来なさい」これは知られたな、大目玉を覚悟で職員室に恐る恐る入った。開口一番「渡辺旅行は、どうたった?」「はい、よい勉強になりました。」どうやら転校した山口君から連絡が入ったようだった。「まあ、無事でよかったな」と一軒落着。

昭和36年の春の一こまは終わった。

あらためてお世話になった方方へ御礼申し上げます。

≪2001.8.20記≫


 


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